曽我部恵一
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星野 源(SAKEROCK)
曽我部 SAKEROCKって、結成してどれぐらい経つの?
星野 実はもう10年になるんです。最初はハマケン(浜野謙太)がいなかったりとかしたんですけど、今の4人になってからはもう7、8年経ってます。僕ら、みんな同じ高校の先輩・後輩なんですよ。
曽我部 へぇ、そうなんだ?
星野 でも在学中は知り合いじゃなかったんです。僕はハマケンと一緒にコントやったりとかするぐらいで(笑)。
曽我部 そう、どさまわりしてる感あるね(笑)。SAKEROCKは、年間どのくらいライヴやってるんですか?
星野 コントやってたんですか?(笑)。
曽我部 その間は特に練習とかもしないの?
星野 そうなんです(笑)。高3の時に、1時間ぐらいの短いコント芝居を作って上演しました。その作・演出をやって、ハマケンは主役みたいな感じで出てもらって。
曽我部 すごく自由な校風なんだね。なんていう学校?
星野 自由の森学園ってとこで、永積 崇さん(ハナレグミ)とか、日暮愛葉さんも出身で。不思議な学校だったんですよね。山の中なんで、音出しても大丈夫だったこともあって、学校内でバンド組んでる人も多かったし。教室なんかでもしょっちゅうライヴやってて。僕は高3で初めてライヴに出て、実はその頃、サニーデイ・サービスのカヴァーもやりました(笑)。
曽我部 おぉ、そうだったんだ?
星野 その時は別にヴォーカルがいて、僕はサイドギターだったんですけど。その当時、学校の中でもムーヴメントがいろいろあって。で、あのー、そんときはなんだったかな……ハシケンさんとか、THE BOOMが流行ってたり、ソウルフラワー・モノノケ・サミットに影響受けてチンドンやってる人たちがいて、そこにギターで参加したりとか……なんか本当に変な学校でしたね(笑)。そんな中で、ちょうどサニーデイ・サービスの『サニーデイ・サービス』が出た頃からちょっとあとぐらいで。当時、当時埼玉県の隅っこにある蕨市ってところに住んでたんですけど、すごく田舎っぽいところで、ムーヴメントが入ってくるのが遅いんですよ。レンタルも有名どころしかない店で、唯一カッコいいのCDがあって、それがあの、白黒の牛のジャケの『サニーデイ・サービス』で、ジャケ借りしました(笑)。ホント、埼玉県の僕らの地域には無かった、すごくお洒落なものに触れてる気がして。
曽我部 あれは、イギリス行ってジャケット撮ったんですよね。その時、イギリス行くの初めてだったんだけど。
星野 おいくつぐらいの時だったんですか?
曽我部 僕が26、7歳ぐらいの頃かな。
星野 若い……録音もイギリスだったんですか?
曽我部 音は日本だった。あの頃はまだレコードバブルみたいな、音楽業界にもたぶんお金があった時代だったから「ジャケット撮影でイギリス」みたいなこともありえたけど。今だと、ちょっと怒られそうだけど(笑)。
星野 そうですよね(笑)。で、それからしばらくして阿佐ヶ谷で一人暮らしをはじめたんですけど、ずっとお金がなかったんで、音楽の情報知るためにとにかくCD屋に毎日通って、POPとかしっかり読んでチェックして、気になったら視聴して、試聴できないものは想像して。食事もホント、ご飯に塩、みたいな
曽我部 ご飯に塩ね、俺もやってたなー。デビューする前は、ホントお金なかったから。星野くんはその頃もう、SAKEROCKやってたんですか?
星野 えーと、SAKEROCKはまだやってなくて、悶々としてました。演劇に誘ってもらって出たり、バンドもちょこちょこと誘われたり。
曽我部 演劇も、でもお金結構かかるよね。
星野 そうですね、チケットのノルマがあったり。
曽我部 バンドもすごかった。だって僕らの時代で、ブッキングのライヴ1本で2万だよ? ハコのテキトーなブッキングで2万払えっていう。2000円のチケットを10枚売ってこいって、売れるわけない(笑)。
星野 演劇のノルマで3000円のチケットを20枚っていうのありました。1人で6万売って来いっていう。結局売れないから、やっぱ自分で払ったり。
曽我部 でも、あれを通過した人じゃないと、ある意味ダメだと思うんだよね(笑)。
星野 たしかに経験してるとしてないとでは、やっぱりちょっと違いますよね(笑)。そういう意味では、自分も意外と下積みしてるんだなぁって。当時はそんな意識なかったし、それが普通だと思ってたんですけど。